この支配からの卒業

大学を卒業したので、大学生活4年間を振り返ろうと思う。

 

受験期

私が大学を選ぶ際にポイントにしたのは以下の4点である。

  • 国立大学であること
  • ゲームを作るサークルがあること
  • 情報系(プログラミング)の学部があること
  • 家から通えること(都内)

当時、ゲームクリエイターになるならプログラミングを勉強した方が良いと父親から言われた私は、とりあえず、情報系の学部を志望していた。

私立理系の学費が高いのと、国立を推奨する高校だったため、私は迷わず第一志望を国立大学とした。

 

とりあえず偏差値が高いところ、かつ、ゲームが作れそうなところ。

ゲームクリエイターになるために逆算をして大学を選んだ。

そうして大学を見つけた。だけどこの時は、この大学に潜む闇になど気づきもしなかった。

 

当日受験会場に訪れた私は、ある違和感を覚えた。

 

ー女子トイレに列がないー

 

他の私立大学では、とにかく女子トイレを待つのが苦痛だった。なのに、この大学は女子トイレが空いている。しかも、受験会場の男女比が明らかにおかしい。

1つの疑念を抱えながらも、私は受験を乗り越えた。

 

入試には自信があった。だけど、持ち前の心配症で、結果が出るまでは非常に病んでいた。ドラッグオンドラグーンのBGMを聞いては深く沈み込む日々。この数週間に味わった苦しみは今でも忘れられない。

 

自分の受験番号を見つけた時は、泣いた。

漸く受験という長い支配から開放されたと思った。

けれどそれは、新しい支配の始まりだった。

 

大学一年生

入学式で女子率が発表され、二桁をいったことを喜ぶ学長をみて、私はこの大学がとんでもなく女子の少ない男子だらけの大学であることに気づいた。必死に女子を探しては、友達を作ろうと奮闘する日々。気疲れも多かったが、おかげで良い人達に巡り合えた。

 

 

大学を前期で受かった人は、一年生の前期の成績で希望する学部にいけるかどうかが決まる。プログラミングを学びたい私は、情報系の学部希望だった。もし他の学部になってしまったら、どうやって人生設計を組み直そうか、そんなことをよく考えていた。

結果として、私は情報系の学部に入れた。だけど周りには、希望の学部に行けなかった人がまあまあいた。そういう人達をみて私は「大学に入って好きなことが学べないなんておかしい」と強く感じた。行きたい学部がない人に自由な選択肢を与えるよりも、行きたい学部がある人を確実に入れてあげるべきなんじゃないか、と。

 

大学二年生

課題に追われていた日々に少し余裕ができ、漸く私はゲーム制作に挑み始めることができた。とある授業をとり、単位の一環として、Unityを習った。

 

Unityは、私の頭の中の世界を形作るのに最適なゲームエンジンだった。あまりに直感的にゲームが作れてしまうことに驚きつつも、自分の手でゲームが作られていくことに、最大の喜びを感じた。

 

大学に入ってやりたかったことが、漸く叶えられたと思った。

 

大学三年生

「新しいことを始めたい」

 

そう思って、友達の紹介で長期インターン に参加した。

このインターン でゲーム制作に必要な技術を沢山吸収することができた。いろんな方面でとてつもなく成長できた。

 

その後、チームでのゲーム制作にも挑戦した。集められたメンバーは、自分の何倍も技術力を持つ人達だった。その人達に指示をする立場として、常にメンバーがかけないような場作りを心がけた。そして何よりも

 

「自分にできないことを頼んでいる。だから、最大限起こりうるリスクやその人個人にかかる負荷を配慮しながら、計画をたて、お願いをする」

 

このことを忘れずにしなければならないと自分に強く言いつけていた。沢山迷惑をかけたが、良いメンバーに恵まれて、最後まで作り上げることができた。本当に、この人達には足を向けて寝られないと思っている。

 

私がプロジェクトを離れた後も、別の人がこのゲームに手を加えていてくれた。コロナの影響で卒業式をきちんと行えなかったその年に、ゲームを通してイベントを開催していた。そこまで続くプロジェクト、ゲームだとは考えてもいなかったので、嬉しかった。

 

この年に一番悩んだのは、”大学院に進むかどうか”ということだ。

周りの人が当たり前のように院進を口にする中、中途半端に夏のインターン などに行っていた私は、就職するべきかどうかを酷く悩んでいた。

 

”大手のゲーム会社に就職するには、大学院に進まなければ話にならない”

 

と思っていた。なぜなら、大学の就活記録に目を通すと、大手に入っている人の9割が院生だったからだ。院生相手に勝負できるほどの技量も経歴もないと感じていた私は、自分の大学の記録だけをもとに、就活を諦めようとしていた。

これを理由に、言い訳がましくも、院進をしようか考えていると伝えると、父親から、「本当にゲーム業界で院生が多いのかどうか、ちゃんと調べてから進学を決めなさい」と言われた。周りの人と比べて思ったよりも院進に賛成でない両親に対し、私はヤキモキしながらも、再び進路という名の深みにはまっていった。

 

今思えば、父親の考えは至って真っ当な意見だった。

私が院に行きたい理由なんて、本音を言えばこんなものだったのだから。

  • ゲームを作る時間が欲しい
  • みんな院進してる
  • 院進した方が大手に入れる
  • モラトリアム期間を伸ばしたい

大学院の本質である研究という部分にはほとんど興味はなかった。こんな人間は大学院にいくべきでないし、大学院を甘く見すぎだと、この頃の自分に言ってやりたい。

 

結局答えの見つからなかった私は、大学院の推薦が取れることを理由に、院推薦が決定する5月までに決着がつく会社を受けてみようと決めた。どうせ二回挑戦できるなら、今のうちに受けたい所を受けてみよう、と。

 

結果的に挑戦してみたところから内定をいただけ、私は迷うことなく院進をやめた。

 

実際に就活をして気づいたのは、大学院に進む多くの人は、国立の理系や名だたる私立という事だ。これはほんの一部に過ぎなく、だからこそ就活の際に強みとはなるが、ほとんどの人は普通に大学を4年で卒業し、社会に出ている。

私が言いたいのは、私が挑戦した業界に関して言えば、院に進むかどうかで就活の有利不利は決まらないという事だ。

 

この時逃げずにちゃんと就活をしていた自分を私は褒めたい。目に見える世界の範囲で答えを決めてしまうのは危険だと気づけたのだから。

 

大学四年生

就活が上手くいったので院進をやめ、学生生活最後の休みを好きなように過ごそうと決めた。 その瞬間、研究に対するやる気はほとんどスタートの時点からなくなってしまっていた。

 

実際に研究を初めてみて5月頃には、自分は研究に向いていないと感じるようになっていた。後一年の辛抱だと自分に言い聞かせながら、なんとか研究を続けた。特別厳しい研究室であった訳ではないし、コアタイムもなかったのだが、残りの一年を遊び呆ける人達を横目に研究室に籠るなんてことはできなかった。

 

私は結局、ゲームが作りたかったのであって、研究をしたかった訳ではない。

 

蝉が鳴き始める季節になって漸く、私はそのことに気づいた。そして、院進しなくて良かったと心の底から感じたのだった。

この一年は何をしたのかあまり思い出せないくらい、だらだらしていたと思う。

勿体無いのかもしれないが、”時間を勿体無く使う”という今しかできないことをしていた。

 

 

まとめ

ゲームを作りたくて大学に行ったが、結論からいうと、私の行った大学はゲームの作り方を教えてくれる場所ではなかった。(専門学校ではないのだからそれは当然のことなのだが。)だけど、この大学で習ったプログラミングを土台に、私は独学でゲームを作ることができた。高校生の時に諦めた壁を、大学で学んだことを活かして乗り越えることができたのだ。

 

バイトをして、友達と遊んで、サークルに勤しむ。そんな普通の大学生活を送ることはできなかった。だけど、勉強と課題に追われながら自分の本当にやりたいことに取り組めたこの4年間は、意味のある時間だった。

 

またこの大学に入りたいと思うかとと問われれば、ノーと応える。

でも、この大学で出会った人達にはもう一度会いたい。そんな大学生活だった。