ゲームを作って1年が経った

社会人1年目が終わった。

ゲームを作って1年が経った。

1年目を終えた自分が今何を思うのか、記したいと思う。

 

 

 

 

やっぱり働くって大変だ

ホウレンソウを徹底すること、困ったら時間をかけずにすぐ相談すること、社会人になって本当に大切だと学ばされたのは主にこの2点。

コロナで在宅が続き、不安だった5日間労働を少しずつ慣らしていくことができたのはありがたい。その分コロナ世代の私が何を経験していなくて、これから何を期待されて、何に困るのか、分からないことは沢山あるが、多分答えは誰も知らない。

 

土日は死んだように寝て、平日はひたすら働く。

平日の夜にゲームをする元気はなく、だからと言って休日は睡眠>ゲーム。

自分の時間はほとんどない。

やりたいと思うことをやるだけの熱量が沸かない。

たまにある祝日がボーナスポイントのように嬉しくて、

三連休は心が躍る。

 

この日々こそ社会人なのだと、経験して漸く気づいた。

 

 

 

ゲームを作るって大変だ

大学生の時に作っていたのとはノリが違う大規模なゲーム制作。ゲームを作って食べていくとはこういうことかと気付かされた。

 

人とやりとりをしなければ成り立たない。

どこかで落とし所を見つけなければ終わらない。

自分のアイデアは浅はかで、突き詰めれば穴だらけ。

遅れたら周りに迷惑がかかる。

勝手に判断すれば後でボロが出る。

手間暇かけても売れなきゃ続かない。

自分で考えて解決しなければならないフィードバックは困る。

効率的にやらなきゃ自分の首を絞めていく。

右も左も分からない。何も。

 

沢山のことに悩んで、夜中に起きる日々が続いた。今もその日々から解放されない。悩みを後回しにする癖がついて、それがストレスとなって追い詰めてくる。

口頭で聞けば早いことも、文面にすると言いづらくなる。

 

ゲームを作るのって、働くのって、ストレスだな、と口にしてしまいたくなる。

 

とにかく、大変なことばかりの一年だった。

1人で作っていた時はこんなに大変だと思わなかったのに、どうして人が増えれば増えるだけ大変になるのだろう。

ゲームって、こんなに大人数で作らないとできなかったっけ。

 

 

 

 

夢を叶えるって大変だ、だけど・・・

ゲームクリエイターになりたいという夢は叶った。今の夢は、スタッフロールに沢山名前を残したい、それくらいだ。大きな野望はもちろんある。自分の頭の中にある世界を形にしたい。いつか、どんな形でも。

 

今はただがむしゃらにしがみつくしかないと思う。

なんだかんだ大変だとかいって、私は今やりたいことをやっているのだから。

夢を叶えるのは大変に決まってる。働くことだって。だけどそれを同時に行える職につけたんだから、ただただ、良いものを作れと自分に言いつけたい。

 

自分がやって楽しいと思うもの、体験してみたいと思うこと、そういうことを細々と実践していけ。

間違っても、大変そうだからやらないは絶対にするな。常に、挑戦する気概であれ。

 

そう、明日からの自分に言付けたい。

 

 

 

そして、今日も私はこの仕事を、ゲームを作ることを、楽しんでいる。

その気持ちを絶やさずにいられたらと願う。

もっと、面白いゲームを作れよと。

 

 

 

 

 

 

 

面白いゲームってなんだった?

消費者側としての自覚があるうちに、私がこれまで面白いと感じたゲームの特徴について記しておこうと思う。

 

シナリオあってのゲーム

私がゲームをする理由の一つは、シナリオを楽しみたいからだ。先の読めない展開、魅力的なキャラ達が描く重厚なヒューマンドラマ。そういったシナリオをゲームを通して楽しむのが好きだった。

だから私は、ゲームを極めるということをあまりしてこなかった。シナリオが終われば、その途端、そのゲームに対する興味ややる気をパタリとなくすのだ。そうして、また次のゲームへと手を伸ばして、エンディングを迎えればその次のゲーム・・・そうやって、ゲームを楽しんできた。

だから、モンスターを狩るゲームだとか、ブロックを積むゲームとか、ましてや、何かを原作にした先の分かったシナリオのゲーム、そういう類のゲームには全くといっていいほどはまらなかったし、やりたいとも思わなかった。

 

ついていけない世界観は勘弁

ファンタジーゲームにあるあるの、世界観の説明やオリジナルワード。何がなんだかわからんワードばかり発するNPCには疎外感を感じた。理解しようとするのではなく、感じられる世界観が理想的なのだと思う。いろいろ考え込んで作りあげられた世界なんだろうが、そういう世界観はヒューマンドラマを通して見せてくれる範囲でいい。直感的に目で見てワクワクする世界があれば、それでいい。

 

不幸なシナリオほど、大好物

他人の不幸は蜜の味ではないが、不幸を積んだキャラにはやはり一定の同情の余地があるというものだ。幸せばかりでいつもニコニコした奴には、思い入れようがない。キャラの魅力というのは、そのキャラ自身の持つ闇の部分から引き込まれていくものではなかろうか。漫画とかで○○の過去編だとかが始まると、いつもワクワクしていた。そのキャラをもっと知れるような気がするし、人単位での隠された真実に触れられるような気がするからだ。

 

死ねばいいってもんじゃない。

不幸なシナリオは好きだ。だけど、ある時から私は、死ネタで涙を誘う展開が嫌いになった。それは、某ゲームでのことだった。エンディングで主人公達が死にたくないと言いながら、瓦礫に積まれて死んでいったのだ。曲も流れて雰囲気良さげに醸し出していたが、胸糞悪かった。死ねばいいってもんじゃない。死ねば感動するとでも思ってんのか?そんな思いを持つようになった。それから、同じシリーズでまた主人公が死んだ。救えたifエンドまで出てきて、ことさらに主人公が死んだ意味が分からなくなった。

綺麗な映像や感情こもったセリフで感動させようとする演出が、受け入れられなくなった。

だけど、しょうがないもので、人の死というのはその人の心に深く残るのだ。その時の感動とともに記憶されるのだ。

どうやったら、死なずに心に残るエンディングを迎えられるのだろう。

 

まとめ

いろいろと書き連ねたが、結局私の好きなゲームは、ヒューマンドラマがゴリゴリに入ったオリジナルのシナリオが、映像と共に展開されるゲームだ。ぶっちゃけバトルはシナリオの展開が気になるという気持ちだけでやっていけるので、ストレスがそれほどなければなんでもいい。それってゲームの意味あるの?と言われるかもしれないが、そういうのをゲームに期待して遊んできたのだから、しょうがない。少なくとも、これが消費者側の立場としての私の思う、面白いゲームだ。

この支配からの卒業

大学を卒業したので、大学生活4年間を振り返ろうと思う。

 

受験期

私が大学を選ぶ際にポイントにしたのは以下の4点である。

  • 国立大学であること
  • ゲームを作るサークルがあること
  • 情報系(プログラミング)の学部があること
  • 家から通えること(都内)

当時、ゲームクリエイターになるならプログラミングを勉強した方が良いと父親から言われた私は、とりあえず、情報系の学部を志望していた。

私立理系の学費が高いのと、国立を推奨する高校だったため、私は迷わず第一志望を国立大学とした。

 

とりあえず偏差値が高いところ、かつ、ゲームが作れそうなところ。

ゲームクリエイターになるために逆算をして大学を選んだ。

そうして大学を見つけた。だけどこの時は、この大学に潜む闇になど気づきもしなかった。

 

当日受験会場に訪れた私は、ある違和感を覚えた。

 

ー女子トイレに列がないー

 

他の私立大学では、とにかく女子トイレを待つのが苦痛だった。なのに、この大学は女子トイレが空いている。しかも、受験会場の男女比が明らかにおかしい。

1つの疑念を抱えながらも、私は受験を乗り越えた。

 

入試には自信があった。だけど、持ち前の心配症で、結果が出るまでは非常に病んでいた。ドラッグオンドラグーンのBGMを聞いては深く沈み込む日々。この数週間に味わった苦しみは今でも忘れられない。

 

自分の受験番号を見つけた時は、泣いた。

漸く受験という長い支配から開放されたと思った。

けれどそれは、新しい支配の始まりだった。

 

大学一年生

入学式で女子率が発表され、二桁をいったことを喜ぶ学長をみて、私はこの大学がとんでもなく女子の少ない男子だらけの大学であることに気づいた。必死に女子を探しては、友達を作ろうと奮闘する日々。気疲れも多かったが、おかげで良い人達に巡り合えた。

 

 

大学を前期で受かった人は、一年生の前期の成績で希望する学部にいけるかどうかが決まる。プログラミングを学びたい私は、情報系の学部希望だった。もし他の学部になってしまったら、どうやって人生設計を組み直そうか、そんなことをよく考えていた。

結果として、私は情報系の学部に入れた。だけど周りには、希望の学部に行けなかった人がまあまあいた。そういう人達をみて私は「大学に入って好きなことが学べないなんておかしい」と強く感じた。行きたい学部がない人に自由な選択肢を与えるよりも、行きたい学部がある人を確実に入れてあげるべきなんじゃないか、と。

 

大学二年生

課題に追われていた日々に少し余裕ができ、漸く私はゲーム制作に挑み始めることができた。とある授業をとり、単位の一環として、Unityを習った。

 

Unityは、私の頭の中の世界を形作るのに最適なゲームエンジンだった。あまりに直感的にゲームが作れてしまうことに驚きつつも、自分の手でゲームが作られていくことに、最大の喜びを感じた。

 

大学に入ってやりたかったことが、漸く叶えられたと思った。

 

大学三年生

「新しいことを始めたい」

 

そう思って、友達の紹介で長期インターン に参加した。

このインターン でゲーム制作に必要な技術を沢山吸収することができた。いろんな方面でとてつもなく成長できた。

 

その後、チームでのゲーム制作にも挑戦した。集められたメンバーは、自分の何倍も技術力を持つ人達だった。その人達に指示をする立場として、常にメンバーがかけないような場作りを心がけた。そして何よりも

 

「自分にできないことを頼んでいる。だから、最大限起こりうるリスクやその人個人にかかる負荷を配慮しながら、計画をたて、お願いをする」

 

このことを忘れずにしなければならないと自分に強く言いつけていた。沢山迷惑をかけたが、良いメンバーに恵まれて、最後まで作り上げることができた。本当に、この人達には足を向けて寝られないと思っている。

 

私がプロジェクトを離れた後も、別の人がこのゲームに手を加えていてくれた。コロナの影響で卒業式をきちんと行えなかったその年に、ゲームを通してイベントを開催していた。そこまで続くプロジェクト、ゲームだとは考えてもいなかったので、嬉しかった。

 

この年に一番悩んだのは、”大学院に進むかどうか”ということだ。

周りの人が当たり前のように院進を口にする中、中途半端に夏のインターン などに行っていた私は、就職するべきかどうかを酷く悩んでいた。

 

”大手のゲーム会社に就職するには、大学院に進まなければ話にならない”

 

と思っていた。なぜなら、大学の就活記録に目を通すと、大手に入っている人の9割が院生だったからだ。院生相手に勝負できるほどの技量も経歴もないと感じていた私は、自分の大学の記録だけをもとに、就活を諦めようとしていた。

これを理由に、言い訳がましくも、院進をしようか考えていると伝えると、父親から、「本当にゲーム業界で院生が多いのかどうか、ちゃんと調べてから進学を決めなさい」と言われた。周りの人と比べて思ったよりも院進に賛成でない両親に対し、私はヤキモキしながらも、再び進路という名の深みにはまっていった。

 

今思えば、父親の考えは至って真っ当な意見だった。

私が院に行きたい理由なんて、本音を言えばこんなものだったのだから。

  • ゲームを作る時間が欲しい
  • みんな院進してる
  • 院進した方が大手に入れる
  • モラトリアム期間を伸ばしたい

大学院の本質である研究という部分にはほとんど興味はなかった。こんな人間は大学院にいくべきでないし、大学院を甘く見すぎだと、この頃の自分に言ってやりたい。

 

結局答えの見つからなかった私は、大学院の推薦が取れることを理由に、院推薦が決定する5月までに決着がつく会社を受けてみようと決めた。どうせ二回挑戦できるなら、今のうちに受けたい所を受けてみよう、と。

 

結果的に挑戦してみたところから内定をいただけ、私は迷うことなく院進をやめた。

 

実際に就活をして気づいたのは、大学院に進む多くの人は、国立の理系や名だたる私立という事だ。これはほんの一部に過ぎなく、だからこそ就活の際に強みとはなるが、ほとんどの人は普通に大学を4年で卒業し、社会に出ている。

私が言いたいのは、私が挑戦した業界に関して言えば、院に進むかどうかで就活の有利不利は決まらないという事だ。

 

この時逃げずにちゃんと就活をしていた自分を私は褒めたい。目に見える世界の範囲で答えを決めてしまうのは危険だと気づけたのだから。

 

大学四年生

就活が上手くいったので院進をやめ、学生生活最後の休みを好きなように過ごそうと決めた。 その瞬間、研究に対するやる気はほとんどスタートの時点からなくなってしまっていた。

 

実際に研究を初めてみて5月頃には、自分は研究に向いていないと感じるようになっていた。後一年の辛抱だと自分に言い聞かせながら、なんとか研究を続けた。特別厳しい研究室であった訳ではないし、コアタイムもなかったのだが、残りの一年を遊び呆ける人達を横目に研究室に籠るなんてことはできなかった。

 

私は結局、ゲームが作りたかったのであって、研究をしたかった訳ではない。

 

蝉が鳴き始める季節になって漸く、私はそのことに気づいた。そして、院進しなくて良かったと心の底から感じたのだった。

この一年は何をしたのかあまり思い出せないくらい、だらだらしていたと思う。

勿体無いのかもしれないが、”時間を勿体無く使う”という今しかできないことをしていた。

 

 

まとめ

ゲームを作りたくて大学に行ったが、結論からいうと、私の行った大学はゲームの作り方を教えてくれる場所ではなかった。(専門学校ではないのだからそれは当然のことなのだが。)だけど、この大学で習ったプログラミングを土台に、私は独学でゲームを作ることができた。高校生の時に諦めた壁を、大学で学んだことを活かして乗り越えることができたのだ。

 

バイトをして、友達と遊んで、サークルに勤しむ。そんな普通の大学生活を送ることはできなかった。だけど、勉強と課題に追われながら自分の本当にやりたいことに取り組めたこの4年間は、意味のある時間だった。

 

またこの大学に入りたいと思うかとと問われれば、ノーと応える。

でも、この大学で出会った人達にはもう一度会いたい。そんな大学生活だった。

 

ゲームと私

自分の生活のほとんどはゲームで成り立っている。

ゲームクリエイターになりたいという夢を持った小学生の頃から、退屈な授業や興味のない行事なんかの全ては、ゲームに使えそうなアイデアを探す時間として捉えていた。

日常のありふれたものから、ゲームのアイデアを探してはメモをする。

頭の中には、常にゲームの世界があった。

 

<小学生>

いとこに貸してもらったゲームが、私のゲームクリエイターを志すきっかけとなった。

FINAL FANTASY」と記された、表がほぼ真っ白なパッケージの中に込められた世界に、当時小学4、5年生だった私は時間も忘れて没頭した。

それからFINAL FANTASYの他の作品も遊ぶようになり、気づけば私はFF信者となっていた。

小学6年生の頃には、発売前のFINAL FANTASY XIIIのHPを毎日見ては、キャラクターや世界観の設定を隅々まで読んで、心を踊らせていた。それから数年後、私はあるタイトルを知ることになる。

そのタイトルの名前はFINAL FANTASY Versus XIII」、後の「FINAL FANTASY XV」である。*1

 

 

中学生

運動が苦手なのに運動部に入部してしまい、ストレスが最大級に溜まっていた中学生。部活が休みの日には命がけのようにゲームをして、部活のストレスを発散していた。

 

ためたお小遣いで中古のPS2を買ったのもこの頃だ。PS2はやはり名作が多い 。KINGDOM HEARTやFF Xなど、あの頃やったゲームは全てが過去補正されて、今もなお私の中で名作として心に残っている。

 

 

あの頃、ゲームは私にとって確かに生きがいだった。

 

 

それと同時に、一年かけて一作品の長編小説を書くことを始めた。この創作は、後に5年まで続き、5つの作品が出来上がった。もちろん全て、ゴリゴリのシリアスファンタジーだ。

 

 

高校生

高校生活が楽しすぎて、この頃は少しゲームから離れていた。

代わりにゲームをするのではなく、作りたいという気持ちが強まっていた。自分の頭の中にあるものを形にしたいという熱量が、私の手を動かした。

 

初めはHP制作。自分の好きなFFタイトルについて紹介したHPは、htmlとcssという初めて触る言語に四苦八苦しながら作られた。

次はMAD制作。好きな場面を好きな音楽と共に合わせて編集した。黒歴史極まりないのに、あの時の私は、出来上がったことが嬉しすぎて、作ってすぐに母親や友達に見せていた。

 

 

それでも、私には作れないものがあった。

 

 

それは、大本命のゲームだ。いろんなサイトを見ても、環境設定から挫折してしまって、気づけばゲームに使いたい素材だけ集めて、受験期が訪れていた。

 

 

<大学生>

「ゲームを作りたい」

その思いだけが、私を突き動かしていた。

入学してすぐにゲームサークルに入って、そこで簡単なゲームの作り方を教わった。それからいろんな活動を通してゲーム制作のために必要な技術を独学で勉強した。

でも、知れば知るほど、自分の頭の中の世界を形にすることの難しさを痛感した。

絵はかけない。モデリングもできない。プログラミングスキルだってほんの気持ち程度。

自分に足りないものが沢山あって、それでも、なんとかしてiPhoneアプリとしてゲームをリリースすることができた。

 

気づけば私は、大学3年生になっていた。

 

ゲームを完成させることは難しい。

それでも、一度自力でやったら、なんだか自信がついた。

リリースしたその日には次のゲームのことを考えていた。

 

それからチームでのゲーム制作もやってみた。そこで初めて、人と何かを作ることで、自分の手の届かないものまでが形にできることを実感した。だんだんと自分のできる範囲でしか動きたくないという考えが強まっていたその時期に、そういった経験ができたのは貴重だったと思う。それもまた、iPhoneアプリとしてリリースすることができた。

 

やっぱり、ゲームを完成させるのは大変だった。それでも、楽しかった。

 

 

 

 

こうして就活が始まるわけだが、その話は別の記事で書こうと思う。

結局のところ、私はゲームが好きで、ゲームが作りたくて、ここまで生きてきた。

勿論、ゲームが生きる理由の全てとは言い切れないけれど、その存在は常に自分の人生における1つの目標なり指標となっていた。

 

*1:後に就活で絡んでくる